『文芸人のフロンティア』雑記十(第一部完)『文芸人のフロンティア』第十一章 公開

2021年11月22日

霧島語り「言語と常識」

語りの更新滞りがち。霧島です。
今回は(今回も?)常識について考えてみたいと思います。

さて、「常識」といえば私が嫌いなものの上位に入るアレですが、
どれだけ嫌っても避けても、常識というものは常につきまとうのです。
「自分は常識を持たない」といくら意識しても、やはり何かにつけて
「当たり前」を他人にも求めてしまう。それが人間の限界です。
それは何故なのでしょうか?

私の至った考えは、「言語こそが常識である」ということです。
それは、単に言語が社会に共通するツールだという話ではありません。
人間は言語を媒体として、常識でコミュニケーションを取っているということです。

体感的には当たり前のことで、文法や語法の誤りなく言葉を発しても、
前提となる常識を共有しない限り、相手に伝わる情報は多くが欠落してしまいます。
大抵の場合はその情報の欠落を無視しても問題ありませんが、
度が過ぎると「話が通じない」ということになってきます。

つまり言語と常識とは切っても切れない関係にあり、
常識なくして言語によるコミュニケーションは成立しないということです。
逆に、言語でコミュニケーションを取れないときは、当人間で共有する常識が
限りなく少ないということです。知らない国の人と対面するような感覚です。
言語が世界に数多く分化して存在することも、この観点から説明できます。
よく言われるように、個々の文化の常識に言語が最適化されたからです。

例えば、若者の言葉の乱れについて嘆くことと、若者に常識がないことを嘆くことは
本質的に全く同じ行為です。同時にこれらは、嘆いても仕方のない必然です。
なぜなら、言語=常識は後天的に学習して獲得するものであり、
学習する内容と学習した結果として持つモノには必ずばらつきが生じるからです。
しかしこの学習の過程で生じるばらつきは、自然界で生物の遺伝子に起こる
突然変異と似たようなもので、一定の意味があるものと私は思います。
ときには既存の語の誤用が広まるなどのエラーも生じますが、
新たな語・新たな常識の発生は人間の社会的な適応度を高めます。

文芸でも、読者を意識して書くならば、彼らの持つ常識に立脚した
文章を書かなければ伝わりません。
その一方で、読者は文章から書き手の常識を読み取ることができます。
本来常識を共有しない過去の書き手の文章を理解することもできます。
ただし、何も知らないところから単一の文章だけで一つの常識を把握することは
困難を極めます。書き手の人物像、時代背景など他の情報が必要になってきます。

前に専門用語について懐疑的な立場の話をしましたが、
こちらの観点から見ると、専門用語の問題はその背景に必ず存在するであろう
業界特有の常識にあるような気もします。常識を把握しなければ、
いくら辞書を引いて言語的な定義を読んだところで、本質的な理解は叶いません。

世のポピュラーな作品は、ポピュラーな常識に立脚しているのだと思います。
私などは昔から、自分のためになりふり構わず自分の常識だけで
作品を書いてきましたが、最近になって思うように書けなくなってきているのは、
その「自分の常識」に限界が来ているからなのではないかと思います。

ポピュラーな常識に染まれば、ポピュラーな作品が楽しめるようになりますが、
わざわざ自分でポピュラーな常識に立脚した作品を書く理由はありません。
『文芸人』シリーズは、その最後の領域なのではないかと思います。
表現する内容は私の常識そのもので、世の常識には一切の忖度なし。
そのような書き方が、近いうちにできなくなる予感がしています。

本当に書けなくなったら、実際、他にもやりたいことはあるので、
存外あっさりと文芸からは離れられるような気もします。
趣味というのは結局そういうものです。

ということで、常識について考えてみたら、
常識に対するスタンスが、私の文芸に大きな影響を与えていたことが
わかったというお話でした。長ったらしい近況報告ですみませんでした。

あっ、『文芸人のフロンティア』は最後の作品になるかもしれませんが、
完結までは人生を懸けてでも書き続けるのでご安心ください。霧島でした。

kirishimanovel at 00:00│Comments(0)霧島語り 

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